山内英夫さん
1950年度卒業
経歴
本郷学園同窓会 前・会長
本郷学園の思い出
私の世代の中学、高校の6年間は学園100年の歴史の中でも極めて特異なものでしょう。中学入学は太平洋戦争敗戦間近の昭和20年4月、入学式直前の空襲で我が家も入学した学校も共に焼失、疎開した母の生家最寄りの中学に転校したものの、本士決戦に備えての陣地つくりと、男手不足の農家の手助けの勤労奉仕に明け暮れ、授業は殆ど行れないまま1学期が過ぎ8月の敗戦を迎えました。占領下の日本は、それまでの教育内容が否定され教科書の不適切な個所を墨で塗る作業が続けられたものです。
疎開先から東京に戻り本郷中学に転入学したのは3年生の秋、戦災にあった校舎は下地のコンクリートむき出しで寒々としていました。あらゆる物資が不足する中、学年途中に転校してきた私は一部の教科書が手に入らず一学期を教科書なしで過ごさざるを得ませんでした。今では、想像もできないことですね。そして昭和23年春からの学制改革。6.3.3制への変更により、私たちは新制本郷中学の第1回卒業生、本郷高校3回生となったのですが3年生にあたる1回生は5年間の旧制中学卒業という形で学校を去り、高校発足時に2年生と1年生しかおりませんでした。
新制度の導入に伴い、模索をしながらの高校の授業の中で私が強いインパクト受けたのは後に立教大学教授になられた林先生の日本史の授業と、当時講師として社会科の授業を受け持った東大の大学院生(名前は失念しました)に授業の中で勧められて読んだエンゲルスの「共産党宣言」でした。林先生の古文書から読み解く歴史の授業では従来の私が知っていた権力者、支配者を中心とした歴史と異なりいろいろな視点にたって学ぶことの大切さを知り、エンゲルスの「共産党宣言」は私が初めて接した社会科学の書籍であり社会構造や経済にも目を向けるきっかけともなった読書経験として、どちらも忘れがたい授業となっています。
本郷学園での最も思いで深いことはやはり部活のことでしょう。当時、旧永井体育館は都内で戦災を免れて残った数少ない本格的な設備を備えた体育館として文理大学(現筑波大学)体操部や早稲田大学バスケットボール部などが練習場所を求めて定期的に利用していました。転校してきてまだ友達も少なかった私は、その練習風景を見物するため度々体育館に足を運んでいるうちに、細々と活動をしていたバスケットボール部の同級生に誘われ入部することになりました。戦時中、バスケットボールは、敵国のアメリカのスポーツとして排斥されていたため、1学年上の先輩を含めて部員数は10名に満たず、また、指導者もいない中で解説書やら知己を頼って練習方法の指導を受けるなど手探りで部活動を続けたものです。当然ながら5対5のオフェンス・デフェンスに分かれての練習はできませんでした。そのため、夢を後輩に託し中学生の部員勧誘とその育成に力を注ぎましたが、彼らが徐々に力をつけバスケットボール部の存在感が高まっていく姿をOBとして頼もしく眺めていました。
数年前にたまたま立ち寄った学園で、多数のバスケットボール部員が練習に励んでいる姿に接し、戦後の本郷バスケットボール部復活の一翼を担った一人として感慨深く眺めたものです。因みにその当時の後輩とは、高齢化が進んだ7、8年前まで、長く交流が続いていました。
現役生へのメッセージ
メッセージに代えてアメリカの詩人サミエル・ウルマンの「青春の詩」の一部を紹介しましょう。この詩は第二次大戦後日本占領軍総司令官であったマッカーサー元帥がその執務室に掲げ座右の銘としたことから一時期有名になりましたが最近では忘れられがちなのが惜しいことと思い紹介するものです。
青春の詩
青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな肢体でなく、
たくましい意志、豊かな想像力、燃える情熱を指す。
青春とは人生の深い泉の清新さを言う。
サミエル・ウルマン作
作山宗久訳