キーパーソン

創立者 松平賴壽

創設者 理事長   1923(大正12)年~1944(昭和19)年
初代校長 1923(大正12)年~1944(昭和19)年

学園創立者であり、初代理事長,校長であった松平賴壽先生は、1874年(明治7)に東京で生まれました。当時「華族の学校」といわれた学習院に学び、ついで東京専門学校(現早稲田大学)に進みました。その後貴族院議員に任命され、さらに第6代貴族院議長を務めました。

社会での活動も諸方面に及び、日本銀行監事・大東文化学院(現大東文化大学)総長・早稲田大学理事をはじめ、50にも及ぶ多くの肩書きを持っていました。いっぽう多趣味人としても知られ、宝生流の謡・太鼓・能や豆盆栽・乗馬などを嗜み、とくに能は染井別邸内に染井能楽堂を造るほどでした。

当時の華族社会で、賴壽先生は「型破りの親分肌」と評され、貴族院議長就任時の新聞では「(大工の)棟梁タイプの角刈り」と紹介されるなど、庶民的な風貌とあわせて、多くの団体の代表を務める、人望厚い名士でした。

永井道明

初代教頭 1923(大正12)年~1939(昭和14)年

永井道明教頭は、本郷中学創立にあたり、松平賴壽校長より初代教頭就任を要請され、本郷中学
に着任しました。賴壽校長が貴族院議員として多忙な立場にあったことから、事実上校長職を代行しました。

本郷中学は一からのスタートでしたから、永井教頭の56歳からの取り組みは当然困難を極めました。校舎設備の問題から運動場作り、優秀な教員をどのように集めるか、その他もろもろの問題を一手に引き受け、毎日のごとく遅くまで学校に残って校務に取り組みました。永井教頭の自宅は本郷中学の隣にあったのですが、帰宅時間は深夜に及ぶこともたびたびでした。創立以来16年間、本郷中学を手塩にかけて一流の私立中学にまで成長させたのは先生の手腕と熱誠のおかげと言えるでしょう。

徳川宗敬


副理事長 1946(昭和21)年~1988(昭和63年)
第二代校長 1944(昭和19)年~1949(昭和24)年

徳川宗敬先生は、徳川御三家の一つ水戸徳川家の二男として生まれ、のち一橋徳川家の養子となりました。
東京帝国大学で林業を学び、3年間のドイツ留学を経て農学博士の学位を取得しました。1939年からは貴族院議員も務めました。
1944年初代校長松平頼壽先生が逝去されたため、第二代校長に就任しました。1946年には貴族院副議長、翌年には参議院議員を務めたことにより、1949年に校長を退任され名誉校長となりました。1954年には新設されたもみじ幼稚園の初代園長に就任しました。その間サンフランシスコ講和会議では、主席全権の吉田茂とともに5人の全権の一人として条約調印の大任を果たしました。1966年からは伊勢神宮大宮司として第60回神宮式年遷宮を執り行い、大宮司退任後も神社本庁統理を務め神社界にも貢献しました。

松平賴明

第二代理事長 1944(昭和19)年~1990(平成2)年
第四代校長 1958(昭和33)年~1990(平成2)年

松平賴明先生は、1944年より第二代理事長を、1958年より第四代校長を務めました。終戦後の学制改革、学校内の混乱、中学の休止を乗り越え、工業課程機械科・デザイン科・理数科の新設、そして中学再開など本校の現在の姿の基礎を造り上げました。また、スポーツの奨励で文武両道の教育や、韓国への修学旅行を日本の高校で初めて実施し、国際化教育の実現に力を注ぎました。

早稲田大学時代には競走部(現陸上部)に在籍するスポーツマンで、後にオリンピック委員・馬術連盟役員・少林寺拳法役員、ユネスコ、ボーイスカウト運動にも携わり大きく貢献しました。また学生時代からアマチュア無線に熱中しており、無線局を開局して我が国のアマチュア無線の普及にも尽力しました。1980年には、教育・ボーイスカウト・ユネスコ活動の功績で勲四等旭日小綬章を受章しました。

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