宮本良一さん
1942年度入学
略歴
元・千葉県立佐倉東高等学校校長
旧制本郷中学校時代の追想
私は今から79年前の昭和17年(1942年)に旧制本郷中学校に入学した者で、現在千葉市に在住しており、この五月で92歳になります。
この度、同窓会より母校の創立百周年を記念して、寄稿せよとの思し召しを頂き、当時に纏わるお話を書かせていただくことになり感激しております。
昭和17年当時の入学試験は、公立は学区制で一期(前期)のみ。私立は学区なしで、一期と二期(後期)がありました。一期校は公立校と同日に行い、二期は残りの私立のみで行われました(因みに本郷は一期校なので公立と同日となりました)。
開成は例年二期を堅持し、公立を落ちた優秀な生徒を入学させるのを常としており、私のクラスメートも公立を受けて落ちた者は皆、開成に入ってゆきました。
私は小学校の担任の推薦で、家から徒歩圏内の本郷中学を受ける事になり、二期は開成中学に出願した事を記憶しております。志願者は多く、3倍を少し超えた位でした。私の受験番号が333番で覚えやすく、90歳を過ぎた今でも忘れられない思い出です。
通学ルートは田端の自宅を出て、木戸山(明治の元勲木戸孝允の屋敷跡)を登り、屋敷町を抜け、駒込殿中(柳沢美濃守の屋敷跡で六義園を含む一帯で、当時「やまと村」と呼ばれ若槻禮次郎さんの屋敷もあった)を抜け、駒込駅を右手に見ながら山手線の跨線橋を渡り、染井道を歩いて登校したものでした。
当時の校長先生は学校創立者の、貴族院議長、従三位勲一等伯爵 松平賴壽先生で、下校時、貴族院から高級車に乗ってお帰りの際、松平邸正門前で出会うのが楽しみで、あゝ今日もお会いできて良かったなあと感じたのを思い出します。
あの頃は軍国主義全盛で、生徒の制服も都下一律で、合繊のカーキ色、帽子は陸軍式の戦闘帽、足元は同色のゲートルを巻き、豚革製の靴を履いて通ったものです。昭和15年(1940年)までに入学の先輩方は、黒詰襟の海軍式白い脚絆で金ボタンも輝いて見えました。当時の校内は全て土足で、屋外での体操(永井体育館は別)や園芸の授業、軍事教練はもとより靴を履いたまま校舎に出入りしていました。
本郷中の教育で特筆するとすれば、三年次まで毎週一回園芸の科目が存在した事でした。他校に比べ格段に広い校地のほか、南側には1500坪余の美しく整備された園芸場が隣接し、水生植物の水槽が点在しており、四季折々の草花も咲き乱れ見事な環境でした。園芸の授業(実習)は「学校園芸界の大家」三木末武先生が担当されていました。級友はこの授業を嫌がっていたものですが、私だけは大好きで待ち遠しい思いでいました。祖父の代まで植木屋であったので、屋敷が広く温室もあり、違った環境で育った事情もあっての事だと思っています。授業以外でも、ひとりで園芸場内を散策し、白いモダンな管理室を覗くのを日課にしていました。成沢圓平先生による一年生の英語の授業で、育種園芸家のルーサー・バーバンクの話をされたのが、尚更夢中になった原因なのかもしれません。
印象深かった先生方については、図画の服部季彦先生は当時としてはモダンな縮れ髪でいかにも芸術家然とされてあこがれていました。パリ留学時レストランの七面鳥料理注文のエピソードは今も鮮明に覚えています。小林副校長先生には書道を指導して頂きました。私は書道に少々自信があったので頑張ったのが懐かしいです。一年次、工作の時間に表札を作成し、今でも手元にあり、当時を偲ぶよすがになっています。
旧制本郷中学校で数々のお教えをいただき楽しく学んでいたのですが、途中で学び舎を去ることになり、昭和22年の卒業生には入っていません。実は、昭和19年9月(1944年)海軍甲種飛行予科練習生(予科練)に志願したからなのです。戦後の紆余曲折を経て、東京教育大学(現筑波大学)農業部に入学し、植物育種学を専攻し、卒業後は千葉県に奉職し、県立高等学校、県教育機関に勤務し、千葉県立佐倉東高等学校校長をもって定年退職しました。以降は国際ロータリーのクラブ会長や地区委員長を務め、タイ・フィリピンでの国際奉仕(井戸設置やデング熱)に係り、85歳を機に退会しました。
目下、木更津にある山林・山荘の手入れなどして過ごしております。この間、瑞宝小綬章(昔の勲四等)叙勲の栄に浴しました。思うに、若かりし頃本郷に学び切磋琢磨し、多方面に感化され、鍛えていただいた賜物と感謝しております。遥か彼方の昔、ご縁により本郷中学校の扉を開いたことが、今日の幸せに繋がったものと確信しております。
終わりに鑑み、母校本郷学園の益々のご発展と同窓会の繁栄を祈念し、筆を置かせて頂きます。