板垣勝夫 先生

板垣勝夫 先生

経歴

元・本郷高等学校 教頭(昭和59年度〜平成2年度)
社会科地理担当

100周年にむけて

1962年23歳から2004年65歳まで社会科地理担当教員として勤務しました。42年間の授業で教えた生徒が7000人近くに達しますが、長い勤務年数、2回のベビーブーム、教頭就任期間も授業を持ったことによります。地理(塵)も積もれば山となる、思い出は尽きません。

本郷での旅を軸に話を進めます、少し長くなりますがお付き合いください。

国際化教育のパイオニア

赴任3年目の64年はわが国第2の開国の年といわれ、4月に海外旅行の自由化、10月に東海道新幹線開通、東京オリンピックが開催されました。本郷では初めて白黒テレビが1台入り体育の時間はテレビ応援だと生徒がはしゃいでいました。

翌年、全国地理教育研究会が8月1日から25日間のヨーロッパ巡検の旅を企画し私も参加しました。出発に際し地理の教員が団体で海外研修旅行に行くことが注目され、国際化教育のパイオニア扱いされました。羽田空港には新聞記者がやって来て若手教員を代表して私も取材に応じました。本郷では海外研修に行く最初の教員だと学校からお志をいただき、先生方に奉加帳が回り餞別をいただきました。それはとてもありがたいことでしたが、帰りの土産が大変で、頼まれた品は、スコッチウイスキーのジョニ黒、モンブランの万年筆、香水シャネルの5番等々。

百聞は一見に如かず、帰国後現地で撮った写真をスライドにして授業で活用しました。

修学旅行の長距離化

わが国の高度経済成長と国際化の進展に伴い修学旅行が長距離化し、やがて海外修学旅行や短期留学、語学研修へと進んでいきます。それは公立学校との差別化、私立学校の特色の1つとして位置づけられ本郷も九州、北海道、沖縄そして韓国へも行くことになりました。

韓国修学旅行は1981年から4回「文化の源流をたずねて」というテーマで行いました。古都、慶州や扶余、焼き物の里、利川を訪れ、扶余では李夕湖先生の講演「百済を語る」を聴き、利川の工房では人間国宝の池順鐸先生から絵付けの指導を受けました。北朝鮮との分界線近く臨津江では南北分断の厳しい現実を学び、また松平頼明校長のおば様にあたる李方子(イバンジャ)女史「朝鮮王朝最後の皇太子妃・元日本皇族梨本宮方子(まさこ)妃」がお住まいになる昌徳宮楽善斉も訪問しました。
旅行中生徒が一番盛り上がったのは中央高校生との交流会でした。学校でサッカーの試合、ハーフタイムに凧揚げをし、試合後選手たちは銭湯に案内され互いに背中を流しあって裸の付き合いをしました。ホテルでのレセプションでは夕食を共にしながら英語・日本語・韓国語・筆談・手振り身振りと思いつく手段の限りを尽くして交流しました。あまりにも盛り上がっているものですから終わりにすることが忍び難く時間を2回・3回と延長したことを覚えています。

1986年に日韓交流文集「鳳仙花の種はじけてとべ」を刊行しました。交流会に参加した中央高校生からその感想文を、本郷高校生からは旅行の感想文を、両校美術部の生徒の絵をカットに使い編集した文集でした。この修学旅行と交流文集が評価され1987年度の読売教育賞を受賞しました。

近隣大学の学祭展示に負けない

クラブ活動は社会部を指導しました。高名な歴史家、元立教大学教授・林英夫先生が戦後本郷在職中に設立した部です。部員の自主的活動ガ伝統として受け継がれていました。4月に年間活動のテーマを決め、夏休みに現地調査をし、秋の文化祭で研究成果を発表するというスケジュールで進めていきます。私はサイドから指導するコーチ役ですが生徒たちと合宿中フィールドワークの楽しさを共にしました。部員たちは実に熱心に活動し文化祭展示では近隣大学の学祭展示に負けない高いレベルを目指しました。

突然ですがここで中1の生徒の皆さんへメッセージです。社会部が取り組んだ調査地とテーマを北から順にあげます。フリーハンドで地図を描きその地点や地域を位置づけてみてください。ネットや地図帳で調べるのもよいでしょう。

  • 北海道日高、平取町(びらとりちょう)二風谷、アイヌ文化
  • 津軽平野、リンゴ農家の実態
  • 下北、六ケ所村、原子力施設の建設を前にして
  • 八郎潟干拓と大規模米作
  • 越後村上、北限の茶と堆朱(ついしゅ)工芸 [私の生まれ故郷です]
  • 福島県相馬市、松川浦の漁業
  • 福島県熱塩加納村、過疎に立ち向かう
  • 伊豆諸島・利島(としま)、島の生活を支える椿油
  • 長野県上松(あげまつ)、木曾の林業
  • 能登沖50キロ・舳倉島(へぐらじま)、離島の役割
  • 鳥取砂丘を学ぶ
  • 夜間中学の実態。
    アンケート用紙を利用し全国調査、冊子にまとめて発表。朝日ジャーナルで紹介され注目を集めた。
松平頼明(よりひろ)先生との思い出

新入り初年度から担任を持ちました。60年70年代は生徒数が多く、成績、生活指導、進級、卒業それぞれに苦労が多かったものです。生徒も教員も生身の人間、カッコイイことばかりではありません。このままいくと滅私本郷(奉公)になるぞとネガティブになることもありましたがそんな時は教員仲間励ましあって頑張りました。理事長・校長の松平頼明先生には校務を離れてお付き合いをいただきました。エピソードを1つ紹介しましょう。

夜、駒込のバーからお宅へ電話する。「待っていましたよ」と坂を下り合流、座は一気に盛り上がる。カラオケなどなかった時代、ア・カペラ(無伴奏)で合唱。シューベルトの「菩提樹」、ナポリ民謡「帰れソレントへ」、イングランド民謡「埴生の宿」、輪唱「カエルの歌」。

ボーイスカウトの国際コミショナーです、先生の指揮は実にみごとなものでした。懐かしい思い出です。

韓国に留学し再び大学生となる

2004年3月65歳定年で退職し韓国の高麗大学国際語学院に留学しました。世界各地から韓国語と文化を学びにやってきます。学生が20歳代、先生が30歳代、その中で1人とび抜けて高齢な留学生でした。男子学生からはヒョン(兄貴)、女子学生からはオッパ(お兄さん)と呼ばれ気持ちがいっきに若返りました。先生からは韓国にはひとつの井戸を掘るという言葉があり本郷での永年勤続は尊いことですと褒められ意気に感じました。

期間は1年半、年寄りの冷や水にならぬよう健康には気をつけました。本郷中高それぞれの退任式で韓国に留学し再び大学生になると宣言したのです。体を壊し尻尾を巻いて逃げ帰ったらそれ見たことかと言われかねません。

人生生き直し、満を持して臨んだ留学です、若者に負けるわけにはいきません。本郷での晩年、韓国文化院の夜学に通い韓国語の基礎を学んでいましたし、韓国に関しての知識や経験では他の学生に対しアドヴァンテージを持っていましたからあとは本郷魂、強健・厳正・勤勉を体現するだけでした。その結果留学が終わる日、卒業式で皆勤賞、優等賞、学業や行事に最も熱烈に取り組んだとして特別賞を受賞、卒業生を代表して答辞を読みました。
※ プロフィール写真は卒業式後の記念写真です。

帰国後、本郷中高の夏休みサマーセミナーで講座「楽しいハングル」を始め今も続けています。老いては(教え)子に従えといいますが、まだまだ負けません。本郷ファミリーの1人として頑張るつもりです。

Scroll Up