社会部 かのや100チャレ表彰旅行(12月23日~25日)

社会部 かのや100チャレ表彰旅行(12月23日~25日)

かのや100チャレ 表彰旅行(生徒レポート)

社会部は12月23日から25日まで、鹿児島県鹿屋市に表彰旅行に行きました

鹿児島県鹿屋(かのや)市の政策アイデア・コンテスト:「第10回かのや100チャレ」で、最優秀賞を受賞した社会部の6名(高2:井上煌平、木我竜徳、木原悠太、坂口遼、服部蒼生、中3:堀合英晴)が、旅費20万円を頂戴し、12月23日から25日まで現地に飛んだ。初日は準優勝の兵庫県西宮高校の生徒4人といっしょに、農家や素敵なご夫婦がホストの民家に泊めて頂き、大量の美味しいご飯で接待され、「かるかん」作りや農業体験などを体験しました。一方で観光では特攻隊の遺書や遺影の展示された自衛隊高空基地を訪問して戦争の虚しさに思いをはせ、慰霊塔では手を合わせ、ウクライナやパレスチナで起きている悲惨な戦争が一日も早く終わるよう皆で祈りを捧げました。最終日には、市長や地元の一次・二次産業に従事する方々の前で、鹿屋市を活性化させるプランについての発表を行いました。とても考えさせられる2泊3日でした。

廃校の片隅にあったブランコの構造物を鉄棒に、逆上がりを始める部員たち(高2)。「これが男子校のノリなんですね!」と女子高生たちに感心(?)される。

人間爆弾「桜花」部隊が駐屯していた跡地。「桜花」とは日本海軍が太平洋戦争末期に開発した全長7m弱の特攻機で、1200kgの徹甲弾を機首に搭載し、細長い胴体部分に人間一人が乗って、敵艦に向かって突撃するというもの。

「55人中1人しか的中せず、しかもこの1200㎏の桜花を運ぶ輸送機を操縦するのに8人の飛行士が必要で、彼らも出撃したら帰ってこられなかった。だから55人×8人の、合計440人がこの作戦で死亡しています。成功したのはたった1人だけ。だから米軍にはBAKABOMB(バカ爆弾)と言われていました」というガイドさんの説明に、暗澹たる面持ちになる生徒たち。

 

夕方、それぞれの民泊先の方と合流。井上・木我・坂口は西宮生の1人とともに大農家の堀之内さんのお宅へ、木原・服部・堀合は元学校教員の吉永さんのお家へお邪魔しました。

〈吉永さんのお宅での思い出 木原悠太(高2)〉

 夕食は黒豚のしゃぶしゃぶ、「だっきしょ豆腐」(ピーナッツで作った豆腐)、野菜の煮物、白米、カンパチのかまの塩焼き、猪ジビエなど、全て鹿屋産で、東京では口にしたことがないほど美味しい料理をいただいた。野菜はほとんど地元の農家さんから、猪も猟師さんからもらったと聞き、驚くと同時に、まさに地産地消だなと感じた。

 

夕食後は、鹿児島銘菓「かるかん」作りを体験。ミキサーに入れたナガイモを手で揉み、容器に入れ、卵白などを混ぜて蒸したら完成だ。餡入りと餡無しの2タイプを作りましたが、どちらもおいしかった。かるかんを蒸している間、三本の木のスティックを手で隠し、相手と合計何本あるかを当てる遊びをご主人の浩二さんに教わった。木原は6連勝したが、その後は不調が続いた。特殊バージョンを生み出し、堀合も服部も楽しそうだった。また、お二人とは長い時間お話し、有意義な時間を過ごした。

翌朝、温かい朝食と鹿屋特産のサツマイモ「かのや紅はるか」のタルトをいただいた後、スイートスプリング(文旦のような果物)やパイナップル、玉ねぎなどを育てている家庭菜園を見せてもらい、合流地点である高隈地区交流促進センターに文子さんに車で連れて行ってもらった。

美味しかった紫芋タルト。      

朝から大量の食事。

吉永夫妻と記念撮影。

本当にお世話になりました!美味しかったし楽しかったです!

(左から堀合、吉永さんご夫妻、服部、木原)

 

 

 

〈「鹿屋市訪問で学んだ「地域」活性化の現実」 井上煌平 〉

 鹿屋市の中でも南方にある、吾平(あがひら)という地にある、堀之内さんのお宅。農泊らしく、出てくる野菜や柑橘類は、目の前の畑でまさに収穫されたもの。我々が宿泊した離れは、もともと牛舎として使用されていたもので、堀之内夫妻と我々4人で囲炉裏を囲んでいると、今の時代なかなか感じることのできない強いつながりを感じることができた。大隅半島の特産品であるサツマイモを使用した揚げ物の「がね」や、山芋、焼き肉など、わんこそばのように次々と出てくる食事に一同は舌鼓をうった。

「苦しい!でも旨いから食ってしまう…!」と出るもの出るもの食べ続けた木我の腹はポッコリ出て、「妊娠2か月くらいかも?!」と盛り上がる。

夕食後には、ご主人が農家の立場から見る今後の農業のあり方についてのお話があり、ご自身の体験を交えたの強い思いは大きな経験となった。

 

2日目

高隅地区の「谷田の滝」の奇観に驚き、鎌倉時代に取水のため開削された「観音淵」の水の美味しさに感動した後、高隈地区の住民と交流した。人口はわずか1500人、小学校全校生徒は15人という過疎地である。

 生徒一同はまず、竹に少しづつ生地をつけて炭火で焼いていく「バームクーヘン焼き」を体験した。生地をかけた直後の回すスピードの加減が難しかったが、面白い体験となった。

また、餅つきも行われた。男子学生という期待を背負って餅つきに参加し、それなりに役目を果たせたと思う。そして、できた餅や、バームクーヘン、特A級和牛の焼き肉を楽しみ、一同「飯テロ」を受け、心は軽く、胃は重くなった。「地方」ならではの人の温かさも感じることができた体験であった。

 

高隈地区の人々は初対面の我々をすんなり受け入れて下さり、都会にはない、濃い繋がりに触れ、心が洗われた。その反面、地元コミニュティの会長さんの中の話で、高齢化率が50%を超えているという点に衝撃を受けた。88人いる地域に0~14歳の子が1人もいないなど、これから日本が抱えていく問題を眼前に見た形となった。

 

その後、我々は、「星塚敬愛園」という、国立ハンセン病療養所を訪れた。ハンセン病とはらい菌の感染により発症する病気で、らい菌を発見した医師ハンセンから名付けられた。

 

明治時代、日本は「産業振興・富国強兵」を遂行し、清・ロシアに勝って欧米列強の仲間入りを果たすことになる。しかし文明国「日本」の裏では、国に隔離され、強制的に収容された人々がいた。ハンセン病患者である。

病の進行とともに、外見が崩れ、足や手などに障害が出る彼らは、当時物乞いとして生活していた。そんな彼らを明治政府は、「文明国」日本の障害として隔離・収容を断行した。彼らは、有刺鉄線で囲われた園内で、名も変えられ、園内でしか使えない「園銭」を使用させられ、病気にも関わらず、自分たちの食糧を自分で作る必要があった。夫婦は、子供を作らせないように生殖能力を半ば強制的に奪われた。その凄惨さから、「日本のアウシュヴィッツ」とも例えられる惨状を、私たちは知らなかった。

 

治療薬が開発され、日本国内での感染も年間数例しかなくなった今ですら、星塚敬愛園は周囲から隔絶した田畑の中にひっそりとたたずんでいる。

入所者の女性は、園から出られるようになった今でも、「園を出たいとは思わない」と語る。資料館にある入所者の増減表には、死亡の欄にのみ数字が刻まれ、少しづつ入所者が減るのみだ。

亡くなった元患者は、園内の納骨堂に入る。死んでも外にでられない。

日本の驕りゆえに生まれた、歪んだ全体主義。そしてそれを挫かれた太平洋戦争。私たちは毎年8月に、戦争の愚かさ、悲惨さを思い出すことができる。しかし、そのゆがんだ全体主義の犠牲となり、死してなお園内から出ない、いや出られない入所者のことを、我々はいつ思い出すことができるのだろうか。

園内にひっそりと佇む、親が患者であったがゆえに強制的に中絶させられた水子たちの「胎児慰霊碑」があった。そこに刻まれている、文を紹介する。

「生きたかったでしょう

悔しかったでしょう

わたし達も同じ思いです。

この星塚の地で

あなた達のことは

決して忘れません

永遠に・・・」

 

入所者が覚えているだけでは、「永遠に」覚えていることはできるだろうか。

我々が、世代を重ねて記憶をつないでいかねばならない。そう思った。

 

次に訪れたのは、かのやばら園。

国内有数のバラの株数を誇るバラ園だ。閉園間近、冬ということもあり、人はほぼいない。しかし今日はクリスマスである。一つの街づくりの失敗例を目に焼き付けて、我々は、夕食会場の霧島ケ丘公園に向かった。

展望台からは、夕焼けに照らされた錦江湾、そして特攻隊の隊員も最後に見たであろう開聞岳を望むことができた。夕食は、優勝賞品の中から黒豚のステーキをいただいた。とてもおいしかった。

そして、準優勝校である西宮の生徒たちと、この2日についてを共有し、花火の時間となった。クリスマスということもあり、子連れ家族や、カップル達であふれている霧島ヶ丘公園。隣にいるのは、わが顧問松尾教諭であるが、これもまた青春ということで、花火を見上げながら一日を終えた。

その後ホテルでは、この2日間の体験を翌日の発表会に盛り込むべく、打ち合わせをし、それは午後10時まで続いた。

 

最終日は、現地発表会・市役所見学を残すのみとなった

発表会は、現地の鹿屋中央高校、西宮チーム、われら誇りの本郷学園の順番で進み、現地での民泊や、大隈地区での交流会を通した体験をふまえた我々のプランを発表した。以下にプランの概要を示す。

今年のテーマは、「利用者数が少ない鹿屋市の「かのやファン倶楽部」をベースに、シビックプライドを鹿屋市に関わる全ての人に育む方法を考えよ」というものだった。

我々のチームは、その「かのやファン倶楽部」サイト自体に、交流をできるチャット機能を追加し、そこの交流を通じてシビックプライド(郷土愛と似ているが、その地域の人だけでなく、その地域にかかわるすべての人を対象としている点で郷土愛と異なる)を育むというものだ。

以下が大会で用いたスライドである。

https://docs.google.com/presentation/d/1vO1Ct0kd1GMsVsRb273-JLYYte19Rm2q/edit?usp=drive_link&ouid=103025437480198242214&rtpof=true&sd=true

 

鹿屋中央高校は、Instagramを通じた鹿屋の魅力発信であった。

そこだけ聞くと、安直なプランと思われるかたもいるかもしれないが、発信主体を鹿屋の住んでいるすべての人が、地元の小さな魅力を発信できるようにしているという点で、とても興味深いプランであった。

チーム西宮は、鹿屋市にある歴史遺産を巡る謎解きツアーの実施という案であった。個人的には、プランを模倣したとき、歴史遺産を持っている自治体ならば、簡単に鹿屋から顧客を奪うことができるのが欠点に思うが、視点が面白いプランであった。

発表後、市長の講評に移り、3チームとも革新性と実現性のバランスが素晴らしいとお褒めの言葉をいただいた。我々本郷学園は、定量的なデータを用いた点が高く評価され「さすが本郷学園」とのお言葉をいただいた。

そして、市役所見学に移った。普段は入れない議会に入れるなど興味深い体験ができた。

しかし、1つ気になったことがある。男女比率についてだ。6階から2階までの部署では、職員の男:女=7:3といったところであったが、1階窓口では、男:女=2:8と明らかに逆転していた。

案内役の職員に話を伺うと、「女性のほうが話しやすい(から窓口勤務)。2階から6階は専門職だから(男の仕事)」とのことで、まあそりゃあ女性は都会にでていくわなぁと思ってしまった。ここに東京一極集中の原因の片鱗をみたように思う。

その後、高速バスで鹿児島空港へ向かうため鹿屋を後にした。

 

今回、鹿屋市を旅することで、地域活性化には「人のつながりと地元住民が自分の地域を誇りに思うことの重要性」を実感した。2014年に政府は「まち・ひと・しごと創生法」を公布しているが、その中の「しごと」の部分がいかに大切かも痛感した2泊3日でもあった。初代の地方創生担当大臣・石破茂氏の言葉にもある通り、「地方再生ではなく地方創生」が目的なのである。従来の、国が地方に対してテコ入れをし、国が地方を支える、という体制を繰り返すのではなく、自治体同士が、自分の「まち」の魅力を掘り起こし、認識し、それを最大限活用できるかどうかが運命の分かれ目になる。

そしてこれは東京にも言えることだ。「親が、家がそこにある」というだけの定住人口は脆い。しばしば人口層は、「交流人口」・「関係人口」・「定住人口」とピラミッド状に図示され、その頂点に描かれるのが「定住人口」だ。だがそれは誤認である。

本郷学園は豊島区にあるが、私立であるため他地域から来る学生・教職員が圧倒的多数だろう。私もその一人だ。そういう人にとっては、自宅の住所がある市区町村よりも豊島区での滞在時間が圧倒的に長い。自宅の住所のある場所では、単に寝るだけ、という関係しかない。

つまりは東京に居住していたとしても、ほとんどがその市区町村にとっては、「ただ住民票があるだけの定住人口」である。つまり、主体性がない。住んでいるのに居住地に関係を持っていないのである。そういうことでは、たとえ「よそもの」であっても主体的にその地域に関わっている人間より価値があるとはいえないのではないか。

この旅を通じて、私はそう考えさせられた。

(文責:社会部生徒)